20250901_人の歯石を笑うな

昔から虫歯になりやすかった。
そもそも歯磨きが苦手なのだろう。子どもの頃から頻繁に歯医者にお世話になっては、あらゆる治療を受けて帰っていた。
あまりにも歯医者に行くものだから、歯医者のあの独特の匂いをかぐと、ノスタルジーすら感じる。我ながら悲しい原体験だ。

俺が子どものころ通っていた歯医者には、治療台にテレビのモニターがついていて、治療を受けながら夕方のニュースを観させられるのが常だった。
ある日もいつものように歯を削られていると、そのテレビに、通っている中学校が映っていた。さらには同級生が校門前でインタビューを受けているではないか。
右上のテロップを見ると、自分の担任だとわかる情報が並べられており、どうやらうちの担任が過去に起こした事件が今になって教育委員会から指摘を受けた、という何ともいえない内容のニュースだった。

全国ニュースで扱うにはあまりにもローカルなネタなのだが、ほぼ当事者である自分にとっては大きな衝撃である。
しかしなんと言っても今は歯医者で、俺は治療を受けている最中なのだ。
目の前で流れる衝撃的な映像よりも、口内で暴れ回るドリルに集中したい。
まだ十数年しか生きていない自分にとって間違いなく一番強烈だったあの瞬間を、一言も声を発せず耐え切ったこの出来事は、自分の強い意志を信じる良いきっかけになっている。

時は変わり、30歳になった。
最近は地球が容赦なく暑いので、仕事帰りにアイスを食べながら帰る生活を送っている。10分の9でガリガリくんを食べ、残り1回はパピコを2本喰いしている。
アイスを食べながら帰るご機嫌なサラリーマンにはおおよそ出会ったことがないので、我ながら貴重な存在である。国に保護をしてほしい。

身動き出来ずに身近な人の一大事を目撃するという拷問のようなイベントを経て、意志の強さには自信があるが、それは折れる方向の清々しさにも自信があるということで、ダメなときはあっさりダメになる。それでいい。俺の強い意志は、世界から尊重されるに値する立派なものだ。

そんな夏を過ごしていたら、虫歯になったぞ2025。冷たいものが主に奥歯に沁みる。
沁みるだけなら知覚過敏で誤魔化せるが、舌で歯をなぞると欠けるはずがない我が永久歯に鋭い角を感じる。
ん?欠けてないか?と思い、鏡の前で大口を開くと――ハッキリと欠けているではないか。
自分を甘やかしていたら、虫歯になった。俺は弱い。意志も、歯も。

週末になり、俺は近所の歯科の待合室で診察券を握りしめていた。
東京に越してきてから初めての虫歯治療は、妙に緊張してしまう。

なぜか近所に歯医者が多く、10軒くらいの中からなるべく評判がいいところを選んだつもりだ。口コミに「最初に丁寧なヒアリングがある」とあった通り、まずは対面での問診から始まった。
優しく微笑む目の前の歯科医に、歯が欠けていることを中心に説明し、「痛くしないでほしい」と懇願した。
情けない。こんなことなら、紙での問診のほうが良かった。

診察台に通されて歯を見てもらう。
自分と年齢が近そうな歯科医が、俺の口を見て「あ〜」と声を出す。落胆と納得の入り混じった声だ。

外出するときは外見をそれなりに気にしているが、内側を見られて落胆されると、外見を否定されるよりも余計に凹む。
しかし仕方がない。すべては俺の不養生のせいだ。甘んじて虫歯の一本くらい受け入れるしかないのだ。

「虫歯3〜4本あるね。どれも詰め物かなぁ」

指示されていないのに口を大きく開けたまま、恥ずかしさで目眩が生じ、その日は治療もせず家に帰った。

一軒目の歯科医の帰路でぼんやりとしていた頭は徐々にクリアになり、恥ずかしさは罪悪感に変わり、最後は歯科医に対する猜疑心だけが残っていた。
バスの流れる風景を見て気持ちを落ち着かせていたのだが、ふと気づけばさっきの歯医者の悪い口コミばかりを眺めている自分がいた。

そうだ、他にも虫歯があるわけがない。痛いのは一本だけだし、しかもそこはすでに欠けている。少し削ってレジンを流せば終わりなはずだ。銀歯?そんなわけ……。

ショックだった。大人になって虫歯になるなんて、自己管理の下手さを露呈しているだけなのに、さらにそれが複数あるなんて。まるで歯磨きをしていない不潔漢みたいじゃないか。

そうだ、歯磨き。俺は雑かもしれないが歯磨きはしている。
だとすると歯ブラシが良くなかったのかもしれない。最近CMで観たラバータイプの歯ブラシに変えたのが失敗だったのか。

そうやって自分以外のあらゆるものに責任を転嫁していく。
しかし虫歯は俺の口にある。しかも複数ある。――そうだな、俺が悪いな。

バスを降りてトボトボ歩いていると、目の前に綺麗な歯科が現れた。どことなく見覚えがあると思ったら、さっき調べていた口コミでベタ褒めされていた歯科だった。こっちのほうが近所にあるじゃないか。

チラッと覗いたら人もいない。念のためネットで予約を調べたら、15分後に入れそうとわかり、意を決する。
俺は30年生きてきて初めて、歯医者のはしごをすることにした。

二軒目の歯科は一軒目よりもキラキラした雰囲気で、明らかに歯科医の趣味が全開の内装がお出迎えをしてくれる。
歯科衛生士も若い女性ばかりで「なんだかな〜」と思いつつも、状況を伝えて検査をしてもらうことになった。

すると――さっきとはまるで検査項目が違う!
いきなり歯茎を全開にされて写真を撮られたり、レントゲンも4倍くらい撮られ、初手で歯周ポケットの状況まで観察されて……もうなんか俺の口腔内が若い歯科衛生士に丸裸にされた。

そして30分ほどしっかり検査をしてから、ほぼティモンディの高岸と同じ顔の歯医者が登場。
入念に検査結果を見つめ、俺の話を真摯に聞いたのちに実際に口腔を確認してくれる。

飛び込みで入ってきて、しかもセカンドオピニオン的な扱いなのに、ここまで丁寧に検査をしてくれる高岸に心底感動を覚えた。
もう虫歯がいくつあっても、なるべく正直に治療方針を相談して、この歯医者で治療してもらおうと思った。
まんまと口コミのバイアスに影響を受けていることは自覚していたが、それでもいいと思えるほどの対応だった。

そしてついに検査が終わり、高岸と向き合って座る。
さあ、俺の口腔はどうなっているんだ……?教えてくれよ!と構えていると、彼は歯茎全開の写真を眺め、ひとこと。

「めっちゃデカい歯石ありますね」

え?ここまで入念に検査をして、最初に話すことがそれ?と驚愕していると、「ほらここに」とさっき撮られた写真を見せてくる。

確かにめちゃくちゃにデカい歯石が奥歯にくっついている。
というかもう、大きな歯石に歯がくっついているような状態だった。

あまりのおかしさに俺も笑ってしまった。
「ほんとうですね(笑)」と俺が言い、「これはすごいな」と高岸が笑う。

思わず歯科医と患者という関係性すら忘れそうになるほど、フランクな空間がそこにあった。

一通り笑い合って、「これはクリーニングから始めましょう」と自然に次の治療が決まり、さらに「それから虫歯も複数あるので地道にがんばりましょう」と高岸が笑った。

俺は「やっぱり虫歯は複数あるのね」と思いながら、「がんばりますわ」と、まるで長年お世話になっている部活の顧問に応えるような温度感で返事をしていた。同時に、ここで治療を進める決意を固める。

待合室で会計を待っている間、改めて今いる歯科医の口コミを眺めていたら「まるで友人のように親身に相談に乗ってくれました」という投稿があった。
――分かるよ、と頷きながら、俺は24人目の「いいね」を押した。

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