キャンバスにメモを取るとアート

キャンバスはストーリーを生むスポットライト

美術に関わらない日々を送っていると、キャンバスに絵を描く機会がない。

先日ダイソーに売っていたキャンバスを見てそんなことをふと思った。

220円(税込)でした

美術の授業をしっかりと体験するのは小中、長くて高校、くらいだと思う。
僕も中学校以来ロクに絵なんて書いてこなかった。

 

だからこそ、キャンバスに書いてある絵をみると、「立派に見える」気がする。

 

紙とは違って、修正が効かないようなイメージだからだろうか。

一度間違いが起きると取り返しもつかない = 絵がうまい人しか使うべきではない、キャンバスにはそんなイメージがある。

でもキャンバスが100均で手に入る世の中になったのだから、もっとキャンバスと距離を縮めたい!

 

待てよ?描いてあるものが立派に見えるなら、逆にどんなに適当なことを書いてもキャンバスの上なら「立派に見える」のではないだろうか?

 

試しに買い物に行くためのメモをキャンバスに書いてみることにした。

これはどうだろう!

イーゼルというズルも少し加わっているが、雑紙に書かれているような買い物リストに不思議と格式が芽生えていないか?

 

文字の1つ1つが背筋が伸びて、受け手にメッセージを強く発している、そんな印象を受ける。
(まあメモだからメッセージそのものなのだが)

 

ただの書き間違えだって、

なんだか作者の葛藤の証に見えてこないだろうか?

こないか?いや、みえる。

ここの余白が一種の余韻なんだよなぁ〜とか言ってます。

普段だと雑に扱われているものたちだって、キャンバスに載せると不思議とストーリーが見えてくるのだ。

キャンバスは全てを輝かせることができるスポットライトなのかもしれない。

 

 

カップラーメンの具を本物にしてみる

あまりにも素敵な感動を覚えたので、この一連の流れを整理してみた。

キャンバスというある種「お高い」存在へ雑に手を加えると、まとめて「お高く」見せることが出来るこの状況、計算式にすると以下になる。

ならば、日常にありふれた存在を過剰に丁寧に扱うとどうなるか。

キャンバスの時とは逆に、お高い効果を消して雑な印象だけが残るのだろうか?

一応、計算式にしてみるとこうだ。

式にするとわかりやすい!

今回は日常にありふれたもの代表として、カップヌードルシーフード味を用意してみた。

このカップヌードルのフリーズドライ化されている具を、全部新鮮な本物素材に変えてみる。

 

果たしてありふれたシーフードヌードルが勝つのか、それとも新鮮の魚介類(その他)が勝るのか!
早速検証してみよう。

 

シーフードにはいっている具はこちら。

・いか
・たこ
・たまご
・キャベツ
・ネギ
・カニ(かま)

 

本物志向にこだわっていくので、恐縮ながら一度それらの具は慎重に除かせてもらった。

これも立派な調理過程の1つです

 

そこにスーパーで寄せ集めた魚介類たちを乗せていく。

 

シーフードヌードルに乗っているカニはカニカマなのだが、本物にこだわろうと鮮魚コーナーにあったしっかりとしたカニ肉をウキウキしながら買ってきたら、これもカニカマだった。

買うときからだまさないでほしい(味はおいしいからいいのだけど)。

完全にここで気落ちしてしまって、カニに関してはカニ缶で妥協することにした。
まあこれも1000円くらいする立派なカニ肉だから許して……。

 

そうして完成した「本物のカップヌードルシーフード」が、これだ!

あれ?
なんかごちゃごちゃしてて、おいしくなさそう……。

 

いやいや本物は味が違うから!味が!
食べてみたら違うはずなんだ!!

だって2000円近くかかっているわけだから!

これは……
味はシーフードヌードルだけど、食感だけ魚介がやたら強い主張をしてくるから、どちらにも集中できなくてわけがわからない……。

 

いや、おいしい!おいしいはおいしいのだけど……。

かなしい、という感情が1番近い。

 

たくさんお金を持ちすぎてしまってために、あの頃好きだった味を思い出そうにも思い出せない悲しいお金持ちの気持ちになる。


いくらお金を出して再現しようとしても、あの時感じた思い出はもう、ここには帰ってこない、そんな悲しい気持ちに……。

ちょっと泣けた

 

余談だが、つまみ食いした卵黄だけの炒りたまごが濃くてメチャクチャうまいという発見があった。

たまご料理をなんでも卵黄だけにしたらすごいことになるかもしれない。

 

  

その気持ちもアートにすればいい 

自主的にやった結果かなしい気持ちになるなんて、考えてもいなかった。
とんでもなく滑稽である。

そもそもなんなんだ、この計算は。

 

このやるせない気持ちの行き所を探して、結局このキャンバスに戻ってきた。

案外緊張する

いまこそ、この率直な気持ちを、キャンバスにぶつけてみよう……!

なんだか、やり場のない感情がかなり綺麗に収まった気がする。

キャンバスってやっぱりすごいぞ!

 

ここにきてついに気がついたが、人はキャンバスを前にすると、その内容を深く読み取ろうとする。

その結果、意図があろうかなかろうがそれぞれの解釈によって、ストーリーが見出されて、結果的に「立派に見える」のだ。

 

キャンバスの上に何かをのせるだけで、意味のないことでも意味のあったように思える。
記事のオチとしてなんてありがたいなんてありがたいシステムなんだ!

 

 

キャンバスに描くという贅沢

 

シーフードヌードルのときに気がついてもよかったのだが、ここまでやってきたこと、総じて「贅沢が気持ちいい」という話なのかもしれない。

 

カップラーメンの具材を本物にすることはそのままダイレクトに味覚に快感を与えるが、キャンバスを雑に扱って悦に入るのも視覚に訴えかける立派な贅沢だ。

腕を組んで見ていると「わかっている人」に見えるから気持ちがいい

つまり、アートって自主的に贅沢をすることなのかもしれない。
贅沢をしたければアートをすればいいってことなのか?

計算式にするとこう

 

昨今中々贅沢をすることも憚られる世間だが、身近な生活にアートを見出してこっそり贅沢をする分には誰にも迷惑をかけないのでオススメである。

罪悪感をギリギリ感じない贅沢を味わって、生活をたのしく過ごしていこう。

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