主語が大きくなってしまい少々心苦しいが、大体男は若い頃に”一端のものになりたい”と思うらしい。らしい、などと言っているが多分に漏れず俺もその気が強くあって、”一端のものになるには”と思い悩んでいる。
特に努力や挑戦をしていない中、堂々と「自分も価値ある人間になりたい!」と言っている様は滑稽で情けないが、向き合わないことには何をするべきかわからないので考えざるを得ない。
にしても面倒臭い。本当に面倒臭い。明るくはないことを考える時間が強烈に面倒なので、すぐに飽きてしまう。飽きて外に出かけてしまう。
今日はそんな感じで多摩のプラネタリウムに行ってきた。1人で。地元の近くに子ども科学館があって、高校の頃「星空に詳しければモテる」と思っていた俺は足繁く通っていた。完全にその土地の子どもたち向けの施設なので17歳の青年がいるのは似つかわしくないのだが、周囲など気にする余地もなく何度も何度も同じ番組を観ていた。
プラネタリウムに馴染みない方はよくご存知ないかと思うが、ただ星座の解説をするだけがプラネタリウムの在り方ではない。
俺がよく行ってたプラネタリウムでは冒頭15分は今日の星空の様子を紹介し、その後30分で全天ドームに教材ビデオや教養映像を映し出す形式を取っていた。
後半の「番組」では当時話題だった小惑星探査機はやぶさのドキュメントや季節に応じたコンテンツ、夏だったら宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のアニメーションなどを投影した。
特に夏休みにここに通っていた記憶が強いので、『おかえりはやぶさ』と『銀河鉄道の夜』は最も数多くみた映像作品だと思う。
目的はもちろん星座解説を聞くことで勉強することだったが、初めてプラネタリウムに行くとこの全天で美麗な映像が広がっているインパクトの大きさに圧巻されてしまった。感動をしたのだと思う。
当時は気持ちよくそれを身体で感じていたが、久しぶりのプラネタリウムで全天映像を観たら少し酔ってしまい、悲しみを感じた。
老いによって感動が感じにくくなるなんて、聞いていた話と違う。歳を取ることの唯一とってもいいポジティブな要素に対して若干の恐怖を感じた1日だった。
話が逸れた。まあこんな感じで大いに逸れながら「自分は何になるのか」を考えている。テレビをつけたり本を読んだり、インターネットを見ていてもすぐに自分よりも面白く楽しいことを(努力して)実現している人がいる。
何かをしようと参考を引くとすぐにそれらを見つけてしまい「自分がやってもしょうがない」と思ってしまう。しかし一体何がしょうがないのか。俺は誰かと戦って人生を過ごしているのか。別に誰も俺の相手などしていないのに。
”一端のものになりたい”気持ちは根源は誰かに勝ちたい対抗心のような気持ちではなく、自分にとっての価値を見つけることで揺るがない自信を持つためである。
自分の武器を持つことでそれを応用して人生の荒波を越えていきたいのだ。
もちろん側から見たらすでにそんなものあるだろっていう人もいるだろうし、そんなものを意識しなくても生きていくことはできる。本当に危機的状況の人が聞いたらそんなことを考えて停滞しているなんて贅沢な悩みだともいうだろう。
でも俺は個人で生きていきたい。何にも所属をすることなく個人でも生きていける術を持つことが組織でも強く生きていくための糧だと思っている。そのための思考なのだ。
またここで矛盾しているのは個人で生きていくための術は回り回って集団のための術でなくては評価されない。多数の支持を得ることで、個人が支えられるからだ。それは組織で生きていることになるのではないか?と頭がぐるぐるしてくる。
まあ考える前に動いた方が結果は早く手に入るので、何はなくとも動くのが先決だ。予定は先んじて埋めていた方が何をするべきかがわかる。あー面倒臭い。めんどくさくないことが良いことでも好きなことでもないからしんどいですね、人生って。