第二次思春期の訪れがあったのか、最近「生きるとは」から「働くとは」や「自分とは」なんて問いに対して必死に答えを出そうとモヤモヤしている。そんな抽象的なものに確固たる答えなどないと分かっているものの、はっきりしないと先に進むのが怖くて塞ぎ込んでしまう。
俺は昔からRPGでは、しっかりレベル上げをしてから攻略本に書いてある規定レベルを”10″は超えた状態でダンジョンに挑みたいタイプだったのだ。人生はどうしてこう難易度が人によって異なっているのか訳がわからない。それに加えていつ自分が死ぬかもわからないため、目指す地点(エンディング)があやふやなまま大事な選択が急に求めらたりする。
17歳の頃に「人生はクソゲー」とかいきったことを言っていたが、クソとかじゃなくてそもそもゲームとして成り立っていない。プレイヤーは引くほどいるのに、誰もこれといって正規ルートに行かない。攻略という概念を教えてくれ。そんな下らないことを考えている。
とはいえ、人生もある程度進んできて「諦める」ことを覚えた。後悔や悔しさを抱く機会も減って、何となく自分に対してだけは許せる場面が増えてきたように思う。都合よく忘れているだけかもしれないが。そして相変わらず他人のことは許せない。俺が1番可愛いし、愛している。幸せになりたい。
基本他力本願な人生を過ごしてきたので、神社によく参っている。他力本願の極み、神頼みだ。
その時願い事をする訳だが、高校生くらいからずっと「幸せになりたい」という大雑把な範囲指定をすることで、広く大きく好機を得られないか画策している浅ましい人間だった。今でもそう思っている。
ただこの時からこうやって漠然とした願い事ばかりしていたから、この歳になって「何がしたいのかわからない」などと言い出すのだろう。自身をどのようにしていきたいか、その方向性を確定させてこなかったツケが大人になって表層に出てきているに過ぎない。
だからと言って選択肢を狭めた結果得られなかった幸福について考えると夜も寝られない。
時間ばかりが過ぎていく。やりたいことだけを積み上げていく毎日にはもう飽きてしまったのだった。